50歳の誕生日 ―束縛していた夫が癌に―

自由に

あの日も、真夏の陽射しが容赦なく照りつける、息苦しいほどの暑さでした。
私はいつも通りに家事をこなし、会社へと向かいました。
何の変哲もない、いつもと変わらぬ日。
そう思っていたのです。

それが――

50歳の誕生日。
本来なら、自分を少しだけでも労ってあげたかったはずの、その日に。
私の携帯が鳴りました。相手は、あの人。夫でした。

「すぐに帰ってきてほしい。〇〇病院まで来てくれ」

その頃の私たちは、よく口論していました。
私がようやく、自分の気持ちを言葉にするようになったからです。
それまでは、彼の言葉に従い、感情を押し殺して生きてきました。

電話を切った後も、心のどこかで思っていました。
「何かあるなら、朝のうちに言えばいいじゃない」
最近、「お腹が痛い」と言って痛み止めを飲んでいたのを思い出し、
その程度のことだろうとたかをくくっていたのです。

それでも、拭えない胸騒ぎがあり、会社を早退し、病院へと急ぎました。

白く静かな診察室で、私の人生は音を立てて崩れていきました。

医師は、静かに、しかし冷たくも聞こえる声で告げました。
「膵臓癌です。余命は半年ほどです」
「セカンドオピニオンを受けますか?」

夫は即座に答えました。
「受けます」

「今、受け入れ可能なのは兵庫県と愛知県。愛知県の方が早く診てもらえます」
そう告げられ、私たちは愛知県のがんセンターを選びました。

その日から、私たちの時間は“普通”から少しずつ離れていきました。

がんセンターの待合室には、たくさんの人がいました。
その多くが思ったよりずっと元気そうで――
「癌=すぐに衰弱するもの」
そう思い込んでいた私は、静かな驚きを覚えました。

そして、変わっていったのは、周囲だけではありませんでした。
私自身の心も、確かに変わっていったのです。

何度も「離婚しよう」と思っていた日々。
この人と、もう人生をともにしたくないと願った夜。

でも、あの日を境に、私は決めたのです。
「最後まで、この人のそばにいよう」と。

あれほどまでに私を縛り、
心の自由さえ奪ってきた夫。
けれど、その夜、ふたりで泣いたことを思い出します。
涙だけが、言葉の代わりになった夜でした。

病を得ても、夫は変わらず自分を大きく見せたがりました。
「癌の俺を敬う気はないのか」と言い、
二人きりになると、子どものように泣きじゃくるのに、
他人の前では気丈に振る舞い、やさしい顔を見せる人でした。

でも、その優しさを、私には見せてくれなかった――
いつも、最後に厳しい顔を向けられたのは私でした。

だから私は苦しかったのです。
彼の死が近づいていることに対する「悲しみ」と、
これまで彼に押しつけられてきた「怒り」とが、
心の中でせめぎ合っていました。

憎しみと哀しみ。
ふたつの感情が、私の中で渦巻いていたのです。

けれど私は、“妻”としての覚悟を静かに固めていました。
彼がどうであれ、私の中にある「誠実さ」だけは失いたくなかったからです。

50歳の誕生日。
それは、私にとって“人生の岐路”となった、決して忘れられない一日となりました。

けれど、今でもふと思うのです。

もし、彼にほんの少しの思いやりがあったなら――
わざわざ、私の誕生日を選ぶことはなかったのではないか。
それとも、わかっていて、あえてその日を選んだのかもしれません。
「この日を、あなたに忘れさせないために」と。

――今、あの世で彼は何を思っているのでしょうか。

私は、ずっと忘れられません。
あのときの空の色も、携帯の着信音も、診察室に満ちた静寂も。
そして、彼が最後まで私に弱さを見せまいとした、あの日々も。

50歳の誕生日。
それは私にとって、“人生の意味”を深く問い直された一日でした。

彼が私にしてきたこと――
そのひとつひとつを、私は簡単には許せません。

でも、彼がこの世を去るその瞬間、
私は確かに、「愛」とは何かを見つめていた気がするのです。

それは、許すことではなく、
それでもそばにいると決めた「選択」だったのかもしれません。

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