癌を武器にして|夫の闘病とDVの狭間で見えたもの

自由に

【目次】


優しい顔と怖い顔、ふたつの彼

優しい顔。
そして、怖い顔。

彼には、ふたつの顔がありました。
家族の前で穏やかなときもありましたが、私に向ける目は、いつも冷たく、厳しいものでした。

何度も手術を受け、限界ギリギリの状態の中、それでも彼は「少しでも長く生きたい」と願っていたのでしょう。
今になって思えば、子どもたちの成長を見届けたかったのかもしれません。


生きがいは子どもと仕事だった

私にとって彼は、DV・モラハラをする人でした。
言葉や態度で私を支配しようとし、心が休まることはありませんでした。

でもそんな彼にも、「子ども」と「仕事」という生きがいがありました。
甘やかすことはなかったけれど、厳しく育てようとする姿勢から、深い愛情を感じる瞬間もありました。


最後まで仕事に執着した理由

家庭よりも、私よりも、子どもよりも、彼にとって大事だったのは「仕事」でした。
昭和の時代の典型的な頑固な父親のように、亡くなる3ヶ月前まで職場に通おうと必死でした。

出勤できる日は少なくなっても、「働くことで自分を保っていた」――そう感じます。
体は衰えていき、収入も激減。
それでも傷病手当金は受け取らず、なぜか申請すらしませんでした。

おそらくプライドや、「会社に知られたくない事情」があったのでしょう。
周囲の人々は彼の病に気づいていたけれど、気づかないふりをしていた。
彼はそれにも気づかず、空気が読めないまま過ごしていました。
だからこそ、ある意味“救われて”いたのかもしれません。


生活の苦しさと心の逃げ道

生活はどんどん苦しくなりました。
けれど、当時の私にとってはお金よりも「彼の存在を忘れたい」という思いのほうが強かった。

病気を患ってからの彼は、「癌という病」をまるで“武器”のように使い、私に命令し、支配しようとしました。
「病人だから当然だろう」と言わんばかりの態度――逃げたくても逃げられない日々。

私は、外に出る理由をつくっては、心のバランスを保っていました。
アルバイトは、私にとって逃げ道でもあり、呼吸のような存在でした。


もしも私が癌になったら

では、もしも私が「癌」と告知されたら――?

私は、子どもたちに迷惑をかけたくありません。
だから、身の回りを整理し、できる限りの準備をします。

残された日々を“終活”として、自分らしく、悔いのないように過ごしたい。
心が動く“好きなこと”に時間を使い、もしかしたら、自分の体験を書き残すかもしれません。

「私は、笑って生き抜いたよ」
そう伝えられるように、証を残しておきたいのです。

このように思えるようになったのは、闘病と介護を経験したからこそ。
もしその経験がなければ、きっと私は、告知の時点で混乱と恐怖に押し潰されていたと思います。

経験して、向き合ったからこそ――
私は“恐怖”ではなく、“準備”と“選択”を選べるようになったのです。


おわりに

誰もが、突然病と向き合うことになるかもしれません。
でもそのとき、過去の経験が「自分の助け」となることがあります。

あの時間は決して楽ではなかったけれど、
いま私は、あの時間があったからこそ前を向いています。

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